透析中止と死の選択

公立福生病院の透析中止の選択肢提示の一件が報じられ巷の話題になった後、ネットの記事やそれに対する”ネット上の町の声”を読んでいて、結構ショックだったのは、福生病院の選択提示を当然視する声が多いように感じられたことだ。

患者自らに治療の選択決定権があるのだから、医師がオプションを提示するのは当然のことだし、女性は自らそれを選んだに過ぎない。苦痛を終わらせる権利を患者に認めるべき。
そんな声が多かったように思う。

患者の自己決定権と尊厳死と終末期医療と延命。
そんな言葉がネットの中で踊っていた。どの言葉も、自分の身に起きたこととして想像する中で考えようとすると、年単位で考えても自分の考えがまとまらないような気がする。(もともと論理的思考が苦手だからかもれないけど)

報道によれば今回のケースの女性は、医師の提示した選択のうち透析中止を自ら選んだ。中止を選んだ理由の全てというわけではないかもしれないけれど、女性は透析治療に大変苦痛を感じていたらしい。


透析を中止は死を意味するのだという。福生病院の医師はそのことについても女性に説明したという。

透析中止を選択するということは死を選択することと同じなら、それを選択するということは、その結果としての死を覚悟するということになるんだろう。

透析中止を選択した女性は、死を選択したということになるんだろうか。透析中止=死。なら、透析中止の選択=死の選択なんだろうか。
治療中止が死につながるとわかっていても、透析中止の選択が死を選択したこととイコールにはならないような気がする。その二つの間にはほんの少しのずれがあって、自己決定という言葉では割り切れないような気がする。