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奪還作戦進行中のイラクのモスルの記事を読んで

反・トランプ次期大統領の抗議デモが、全米各地で起きてるという。選挙中もその後も、分断されたアメリカというのが一番の焦点になってるみたいだ。
トランプさんの選挙運動そのものが分断を煽ったとも、もともと分断されてたのが表面化しただけとも言われる。
どっちにしたって、これまで顧みられなかったグローバル化に取り残された人々の怒りに光があたったこと自体は、肯定的に捉えていいのかもしれない。表面化してそれが解消される方向へ進んでいけば、結果オーライにするしかないんじゃないの、と単純に思ってしまったんだけど。

イスラム国からの奪還作戦が進行中のモスルの町の報道を読んで、人々が分断されるということと、分断が表面化することの間には大きな違いがあるのかもしれないと、思った。
モスルはイラクの中でも最も多様化した町で、スンニ派キリスト教徒、クルド人、ヤディス、シーア派など様々な人たちが、長年平和的に共存してきたという。
それが、2003年のアメリカの侵攻以降、脱バース党化が進められる中、スンニ派過激主義の温床になり、アルカイーダ、イスラム国へと続いていったという。
2年前にイスラム国に占領されてから逃げ出した住民たちは、仮にモスルが解放されても、分断が表面化し、対立と戦いで、かつての隣人が敵か味方かになってしまった状況では、怖くて戻れないらしい。表に出てきた憎しみは、人々を敵か味方に分けてしまう。

分断が表面化することが問題なのかもしれない。表面化して、分断されたこちらとあちらが対立すれば、対立が対立を生んでしまう。対立の深化で解決がより難しくなるのかもしれない。
そもそも「分断される」ということがどういうことなのか、自分はよくわかってないって気がする。