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相模原の事件の報道を読んで

毎日新聞(ウェブ版)によると、『相模原市の障害者施設殺傷事件で、植松聖容疑者(26)が緊急措置入院中、病院のスタッフに「ヒトラーの思想が降りてきた」と話していたことが、相模原市への取材で分かった。ナチス・ドイツは障害者を「価値なき生命」と決めつけ、「国家的安楽死」と称して大量に殺害したことで知られる。』とあった。
措置入院の是非の判断の面談で、ナチス・ドイツを肯定する言葉もあったという。
事件発生の翌日の東京新聞朝刊のコラム欄では、ナチスドイツが「T4作戦」で使ったという「灰色のバス」を通してこの事件について書いていた。


今回の被害者は、家族の希望で氏名は公表されない。それは、もっともだと思う一方、なんだか釈然としない思いも残る。
名前を知りたいと思ってるわけじゃない。
けど、被害者一人一人に個別の人生があったはずで、どういう風に日々を暮らしていたのか、少しでもいいから知りたいとは思う。
犠牲になった障害者19人とだけ表されることに、強い違和感を感じてしまう。


今日の東京新聞こちら特報部」に、この事件について、複合障害のある子供の親でもある和光大学名誉教授の話が載っていた。
教授は、今回の容疑者を、異常な人物としてではなく、生産能力のないものは「国家の敵」「社会の敵」であり、その抹殺が正義だと見なす確信犯で、問題は、それが「異常な妄想」と、一言で片付けられない点にあるのではないか、という。
『「出産を含む生産能力のないものは社会の一員に値しないと見なす風潮がある。国家は戦争の敵兵や共同体を害する死刑囚を合法的に殺す。社会資源を注いでも見返りのない高齢者や重度の障害者も『社会の敵』とみなされかねない。そうした水面下にある流れの泡が、ぼこっと出てきたのが今回の事件ではないか」』(「こちら特報部」より)

記事には、1999年の石原都知事(当時)の発言も載ってた。重度障害者施設を視察後、「ああいう人は(入所者)ってのは人格あるのかね」と発言した件だ。この発言については、報道された当時かその後何かで問題になったときか覚えてないけど、ずいぶんひどい発言だと思った記憶がある。ただ、その後、施設を視察した都知事は、入居者の状況に大変衝撃を受けた様子だったということを何かで読んで(それが何かは覚えてないんだけど)、ショックのあまりの言葉だとしたら、ニュアンスがだいぶ変わってくるかもしれないと思い直した。それでも、いったん発せられた言葉は、多分言葉自体が思わぬ力を持ってくるから、この発言はするべきではなかったと思うけど。
自分にとって問題なのは、石原都知事(当時)が、この発言のように感じたことを、自分は絶対に感じない、思わないでいられるだろうか、ということだ、多分。限られた時間の中での通り一遍の訪問だとしたら、同じように感じてしまうかもしれない。そう感じることに対して開き直りという防御反応を自分の中でしてしまったら、それは、「社会の敵」思考へと繋がっていってしまうのかもしれない。そう思ったら、怖くなる。


記事のなかで、一番印象に残ったのは、教授の「『いのちはいのち』でしかない。」という言葉だ。いのちは、理屈を超えたものなんだろう。