「法もモラルも人権も」、について引き続きちょっと思ったこと

先日の東京新聞に載っていた、ニューヨークタイムズ紙の記事中のイスラエル情報機関モサドの元幹部の意見。『「法もモラルも人権も考えずに戦いを始めるべきだ。すべてのIS支配地域を地図上から消し去ることだ。第二次大戦中に(ドイツ東部)ドレスデンでそうしたように」』

最初、これを読んだ時、テロリストを殲滅する戦いをするというなら、これくらいの覚悟がいるのだ、という意味だと思った。ISを地上から消し去るという目的のためには、たとえ市民にいくら犠牲が出ようとも、戦争反対の側からいくら非難を浴びようとも、戦いをやり抜く覚悟を持って始めるべきだ、ということなんだと思った。
建国以来長い戦いを続けているイスラエル。日常の中にテロの脅威がある国では、それくらいの覚悟を国民が普通に持ってるのかもしれない。

戦争を始めるために、国連のお墨付きを得たり、国内の議会の承認を得たり、国際世論を誘導したりといろんな外交・政治努力がなされるのだということを、2003年のイラク侵攻や今回のシリアとイラクイスラム国への空爆の報道で少し知った気がする。
一定のルールのもとで戦争は行われる。だから、法もモラルも人権も、というのは覚悟の問題なのだと思った。

でも、そうじゃないのかもしれない。

水木しげるさんの訃報のニュースを聞いたときに、思い直した。
水木さんは、太平洋戦争中、南方のラバウルに派遣されて片手を吹っ飛ばされた。
訃報記事を読んでるうちに、法もモラルも人権も、っていうのは、戦場の当たり前なんだと、思った。戦争を始めようと決断する人たちが、法もモラルも人権も、考えた上で、ルールに従って戦争を始めても、戦場では、そんなものないのが当然。
爆弾は人を選ばないから、子供だって吹っ飛ばされる。幾つもの報道で、戦場はそういうものだと頭では知っていたつもりだったけど、「法もモラルも人権も考えずに」の一文を読んだ時、それが戦争の当たり前ということに頭が回らなかった。

実際に体験してないっていうのは、当たり前に気づくのも遅れるってことなんだ、となんとなく怖くなってしまった。