「指の骨」読んでないけど、書評を読んで感じた事

23日は子供の大学の卒業式だった。大学の卒業式に親が出席するなんて自分の頃にはなかったから、そんなもんなんだろうと言ったら、それ何十年前の話?と子供に言われてしまった。仕事があるからどっちにしろ行けなかったんだけど。
入学式は東日本大震災の影響でなくなったけど、卒業式は無事行われてとりあえずよかった。

22日の防衛大学校の卒業式で安倍首相が訓示。集団的自衛権の行使容認で戦争に巻き込まれるとの批判に、『「不安をあおろうとする無責任な言説だ。そうした批判が荒唐無稽だったことは、この70年の 歴史が証明している」と反論した。』(東京新聞)そうだ。
この70年、集団的自衛権は行使できないってことできたんじゃなかったっけ?だから、戦争に巻き込まれなかったのかどうかはわからないけど、この反論よく意味がわからない。

安倍首相が出す予定の戦後70年の談話の内容が注目されている。その後の内閣が踏襲してきた1995年の村山談話を、どこまで踏襲するのか。先日の東京新聞に、村山談話についてのわかりやすい特集記事が載っていた。談話の中の、「侵略」という言葉については、「侵略的行為」「侵略戦争」などの表現も検討されていたところ、「侵略」で行こうと村山氏が決め、極秘に閣僚への根回しが始まったそうだ。閣僚の中で『最大の難関は、日本遺族会会長を務めていた通産相だった橋本龍太郎氏への説得だった。』村山氏の直接の電話での説得に対し、橋本氏は文中の敗戦と終戦という表現の混在について指摘し敗戦に統一してはとだけ注文してきた、と記事にあったのが、印象的だった。
戦後50年、敗戦当時20歳だった人がまだ70歳の時代だ。戦場の記憶も残っていた時代なんだろうな。

戦場の記憶。1979年生まれの高橋弘希さんの書いた「指の骨」という小説が、昨年、戦後生まれの書いたリアルな戦場小説として話題になった。(ような記憶がある)日曜の新聞の書評で、この小説が取り上げられていた。
端正な文体で兵士の狂気や医師の「絶望などが巧みに捉えられている」が、「視覚中心なので、血の匂いも、森の匂いも、夏の暑さも、湿気も乏しい。消臭と冷房の聞いた清潔な空間のようだ』『「となり町戦争」もそうだが、日本では戦場をリアルに喚起しない観念的な戦争観こそりあるなのだ。」とあった。
それはそうだ、と思った。70年、戦場の体験がないんだから。戦場も戦争も観念でしかないんだろうと思う。

戦争を体験してもうこりごりだと心の底から思っていただろう人たちが戦後70年、使えないとしてきた集団的自衛権
申し訳ないと思いつつ、行使容認で、世界中に切れ目なくいつだって自衛隊を送れるようになると言ったって、今住んでるここに爆弾が落とされることがないんなら、とりあえず関係ない。自衛隊員に知り合いもいないし。何てことを、心のどこか意識しないとこに持ってるかもしれない、って気もする。